BLUE HUMAN

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三浦健太郎先生の訃報と「一度きりの大泉の話」前期感想

三浦健太郎先生がお亡くなりになったというニュースが!!ベルセルクの続きは先生の脳内に仕舞われたまま未完に。ご冥福をお祈りします。「ベルセルク」せめてアニメの続きが作られるといいな。原作でキャスカが正気に戻ったから描いて欲しいなと思ったり。最近、なぜか平沢進さんの音楽を聴きたくなりベルセルクのテーマも聴いていた。ベルセルクは2度TVアニメ化されて劇場版3部作もゲームもあり、平沢進さんが必ず関わってらっしゃる。ベルセルクの音楽=平沢進さんというイメージ。なんだかタイミングかなと。
傷つけられた青年二人の愛憎劇に栄光と転落のドラマと、ベルセルクはBLに行ってもいい様な要素はあるけれどNLでした。キャスカがいいキャラだったから。凛々しく忍耐強く健気な侍的な魅力。これはガッツを応援せざるを得ない。BLEACHルキアも同様。けなげな恋次を応援せざるを得ない

 

「一度きりの大泉の話」萩尾望都
前期感想
佐藤嗣麻子監督が聞き手に先生が語った回想録。まだ前半でざっくりしか読んでないが、それだけでもすごい本ね。沈黙していた巨匠が語る大泉サロンの秘密。こんな巨匠でも一般によくある話に巻き込まれるとは。石森章太郎手塚治虫のジュン事件と似て非なる感。(手塚治虫は嫉妬を自覚し恥じて謝罪した)表層の描写から奥が読みとれるし、誰かの言ったことが真実の示唆になるし、とても文学的。個人的に手塚先生も竹宮先生もよく読んだし作品は好き。でも嫉妬による攻撃は肯定は流石にできないかな。ターゲットが気の毒だから。作家なら嫉妬は秘めてパワーにするものかと。
ことの是非はともかく、「ポーの一族」「トーマの心臓」の盗作糾弾を正しいという人はいないだろう。大河BL「風木」も面白いが、別のタイプの作品なのは明らか。言いがかりをつけられても描き上げてくれたのが読者には喜ばしい。同じネタでも違う作品になる。今や一つの作品からインスパイアされてみんなが作る時代。竹宮先生からの献本は謝罪と復縁願いかもしれないが、萩尾先生は今なおトラウマだった。諍いが公になったことは双方とも本意ではなかっただろう。
プライドが傷つけられて相手を攻撃する人は傷ついた自分を守っている。しかし相手を傷つけていたと知り自分は傷つけたいわけではなかったと自覚する人もいる。過ちを認めるのは比較的善人かといえる。傷つけることを狙い傷つける人もいるし、知っても自分が加害者と決して認めない人もいる。                        ともあれターゲットにしてきた人から嫉妬からでしたと告白されてもだから何?ってなものでだろう。生理的に相手を受け付けなくなり不快な思い出が蘇る故に相手の作品も見れない。そのことに思いもよらない相手。執筆が困難なほどに傷ついたのに相手にはただの嫉妬の過去でしかない。
自分を正当化し相手を攻撃する人は腹に貯めないので自分の心身は楽になる。受け身で内に貯める人はストレスやトラウマを抱える。前者は自分に嘘をつく分創作者としては枯渇する。後者は悩みを熟慮し作品が尽きず溢れる。一般人としては前者が賢いが。創作者としてはどちらが幸せか。逆かな。内に貯めるからこそ作品として昇華することそのものが生きることに繋がる。なくても生きられるならそれはそれで正しい。創作者として終わるか、生きるかという選択。
萩尾望都作品にはいい時代もあったけど決別する話が多い。仲良し3人組が壊れる作品も多い。傷ついたからこそ考察し何度も描かずにはいられなかったであろう。傷ついたたからこそ生まれた作品がある。どんなに好きでも一緒にいられない人間もいる。永遠に失われてしまった時間を懐かしむ感傷は萩尾作品の美しさのひとつ。
同じものからインスパイアされたことを盗作と言う人間、作品を貶められ傷つく人間。たとえ自分の意とは違っても片方の剣幕に逆らえずに従う人間。何が起こったのかを知っている周囲の人間。見守り助ける人。それぞれの立場から見る風景は異なる。
事実はひとつでも真実はそれぞれの言い分がある。糾弾された者が糾弾し、糾弾したものが同じく糾弾され、片方に加担した者も両方失うかもしれない。その時別の立場であった過去を思い出せば別の真実が見えるが、特に繋げたりしないかも知れない。しかし、作家ならその時の他の人間の心情を知ることもまた作品になる。
作家同士の軋轢は彼らだけのものである。しかし作家としてはマイナスな出来事も無駄ではない。読者としては優れた作品の元になったなら喜ばしくすらあるのだ。
今月の「ポーの一族」続編で、あなたには懐かしい過去の思い出でも彼にとっては違う、的なことをエドガーが言ってる。一度きりの大泉の話の後だと、意味合いが違ってくる。このことについてとても考えられたんだろうなと思う。竹宮先生側の本で押し寄せた復縁の連絡に辟易してアンサーとして執筆された本作。傷を肥やしに作品が生まれた。加害者はただの思い出にしても被害者は違うという発見から考察し、また作品に昇華された。それが作家の業なのだろう。

読み終わったら後期感想あげるかも。大泉後の楽しい話もあるようで。